京都徳島県人会の沿革

かづら橋
かづら橋

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 京都徳島県人会の歴史はかなり古い。

 当県人会の創立総会が開かれたのが、今から43年前(当時)の東京‐大阪間の新幹線が運行開始し、東京オリンピックが開催された日本の歴史的な年・昭和39年(1964年)10月3日である。発起人の人達が手弁当で京都在住の徳島県出身者に呼び掛けられ、当日の創立総会には40名が集まられたそうである。

 名誉会長に元京都大学総長・京都市名誉市民で日本電気工学界の重鎮であり東海道新幹線の生みの親である鳥養利三郎先生を、初代会長に当時医療保険制度の京都の若き旗手として活躍中の鞍馬口病院長・美馬陽先生が選ばれ、会員40名でスタートした。

 翌年の昭和40年(1965年)に第1回総会が開催され、当県人会会則と役員(相談役、副会長、理事、監事)が決められ、その時の会員数は128名であったと記してある。

 その後、美馬初代会長は平成7年(1995年)名誉会長に退かれ、二代目会長矢田精治現会長(当時)に引き継ぐまで30年間、当県人会会長職を務められると共に京都ふるさとの集い連合会会長も歴任され、現在の当県人会の確固たる基盤づくりに尽力された偉大な方であった。

 

うず潮
うず潮

 当県人会43年間(当時)の歴史の中で特筆すべき活動としては、美馬会長時代には徳島県民悲願の夢の架け橋「明石海峡大橋」架橋推進運動の展開・全国女子駅伝競走大会の開催に伴う「京都ふるさとの集い連合会」創設への参画・「京都ふるさとの森」へのふるさとの木「やまもも」を記念植樹・」阿波おどり全国キャンペーン支援活動などがあり、矢田会長時代に入ってからは、創立35周年記念誌発行・琵琶湖船上での創立40周年総会開催・京都四国人会創設と仁和寺境内への創立記念碑建立のほか総会及び花見懇親会の恒例開催や会報「かけはし」の発行・全国徳島交流大使会議と全国徳島県人会連合会第3回総会京都開催などが挙げられるが、いずれにしても、当県人会の活動の歴史は、単なる互助と親睦交流の集いだけではなく、進取の気質に富んだ徳島県人らしく常にグローバルな活動を展開してきているのが特色と言えるのではないだろうか。


 当県人会の会員数は、過去240名を数える時代もあったが、会員の高齢化に伴い病気退会や故人になられた方も増え、現在(当時)の会員数は約170名である。

 かかる状況下にあって、先に向かっては、新たな会員の増強と合わせて高齢化が進む県人会の若返りと世代交代に向けて、また活動の活性化を図るために昨年青年部を再興し現在その体制づくりと具体的活動計画を立案中である。

(京都徳島県人会第44回総会誌記念号「かけはし」(平成19年発行)より抜粋)